初代目歌川豐國 (しょだいめうたがわとよくに)
父は俗称を五郎兵衛といい、木彫人形師として名手の聞へあり、豊国はその家に生れて、幼より画を好むこと甚だしく、ひそかに画家たらむことを志望せしが、あたかも同町には浮世絵の大家歌川豊春の住まいに来て、後ちに門下に入りて薫陶を受く。天明六年発行の黄表紙『無束話親玉』は、彼が草双紙に挿画せし最初のものなり、後で翌七年の干支を有する中判錦絵の美人画を作った。役者似顏絵に筆を染める(「役者舞台之姿絵」)。彼の役者絵は春英に多大の感化を受けた。彼には一男一女もあり、男は直次郎(豊年か)、女はきん(国花女)といい、両人共多少画道に携わる。門人等の連名あり、就中、国政・国貞・国安・国丸・国直・国芳・国虎及び二代豊国等最も著名である。