プーシキン美術館所蔵浮世絵コレクション(18-19世紀)

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浮世絵版画の技術

木版画または木版摺りの技術は、7世紀頃に仏教の普及とともに日本に入ってきました。木版摺りの技術により、仏教の様々な聖人像が墨で摺られるようになり、経典に挿し絵が入りました。他方、木版画が真の開花を見せるのは、ようやく18-19世紀になってのことです。

日本の多色刷り木版画、すなわち浮世絵版画の制作行程には、絵師、彫り師、そして摺り師が関わっていました。また、需要を見込んで発行数を決める版元も重要な役割を担っていました。しばしば版画のテーマを指定し、作品の性格に影響を与え、制作に携わる絵師や彫り師、摺り師を決めていたのが、版元でした。

浮世絵の制作は、絵師が薄い紙に墨で下絵を描くことから始まりました。下絵は、作者が何度も修正し、版元が検分して許可してから、最後に検閲の認可を受けました。その後、版元印、検閲の改印(あらためいん)と作者の名前がすでに入った版木に写すことになる下絵の最終バージョンが制作されました。これを「版下絵」(はんしたえ)といいます。

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その次の工程では、彫り師が「主版」(おもはん)と呼ばれる、基礎となる版木を準備しました。必要な寸法をとって山桜の板で版木を作ると、そこに「版下絵」を貼り付けました(写真1)。全部の線がはっきりと見て取れますが、裏返しに貼られています(写真2)。彫り師は、寸分たがわぬ精確さで下絵の線を彫刻刀で切り出し、輪郭に沿って黒い描画部を彫りこみました(写真3)。色をのせない部分、あるいは他の色の部分は、それぞれ特別な彫りで、異なる厚さで削りとられました。

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この彫り跡によって、絵師は絵のどの部分にどんな色をのせるか見分けることができました。そして、基礎となる「主版」の彫り跡から、他の版木を起こしました。これを「校合摺り」(きょうごうすり)といいます。異なる色ごとに、版木が作られました(写真4)。彫り師は、それぞれの版木に「見当」(けんとう)と呼ばれる目印を彫りました。各々の版木の下の隅に、版木を摺るときに紙をおく目安となるL字型の低い突起を彫ることによって、一枚の版画に複数の色を正確な位置で摺ることができたのです(写真5)。

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写真 5

 

彫り師の制作システムは、技術の熟練度に従って細かく専門化されていました。彫り師は次の三つに区別されました。すなわち、「頭彫り」(かしらぼり)は、熟練した彫り師のことで、人物の顔や髪などを彫ることができました。次は「胴彫り」(どうぼり)で、体や着物など、より複雑ではない線を彫りました。一番下っ端は、「版ちや」(はんちや)といいました。

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最終的に、版木一式が完成すると彫り師に委ねられました。摺り師は各々の版木に色を置き(写真6)、それから一枚の紙を各々の版木の上に広げては(写真7)、丸く平たいバレンという道具を使って紙の上を摺り、手作業で重ね摺りしていきました(写真8)。使われた絵の具は、米糊とウサギ膠を結合剤として加えた水溶性の鉱物か、または植物から採取した顔料でした。版画を摺る和紙は、手漉きで繊維が長く、最初の下絵や試し摺りに使われたものより丈夫なものでした。和紙の成分は、楮(コウゾ)の加工パルプと、植物性糊と石灰、紙に白さを出すための貝殻を細かく砕いた粉から成っていました。和紙は多種多様あり、ふつうの版画には、野生のイラクサから採った繊維(ラミー)入りの、柾の木から作る品質のより劣る紙が用いられましたが、特別注文で制作する版画には、楮(コウゾ)100%のパルプからできた「奉書紙」(ほうしょがみ)という最高品質の丈夫な紙が用いられました。

一作品につき二百枚弱の版画を摺るのが慣わしでしたが、売れ行き次第では、増し摺りされることもありました。後日、必要な場合には版木の磨耗した線は修正されたり切り縮められたりしました。

下絵の段階からその後に続く制作、販売、そして宣伝まで、浮世絵制作の全工程は版元により管理されていました。

浮世絵の技術は、いっさい滲みが無い、厳しく正確な線描に基づいていました。伝統のある芸術言語、木版摺りの技術に不可欠なルール、数段階に分かれる工房の仕事、こういった全てのことが、線、色面、そして装飾の要素から構成される造形理論を可能にしていたのです。

ユスーポワ・アイヌーラ

アダチ版画研究所©